保育園でのやりとりから、将来英語でやりたいことがはっきりした話
今日、次女の保育園のお迎え時に、この4月にお子さんが小学1年生になるお母さんと帰り際に会った。
これまで、特に会話をしたことはなかったのだけど、いつの間にか下のお子さんが生まれていたので、お祝いの気持ちで私から声をかけた。
挨拶程度で切り上げるつもりだったが、いつのまにか小学校の話になっていた。
「小学校や学童が不安で…」
ああ、そうだった。私も長女が卒園するタイミングの2年前、全く同じ気持ちだった。不安で、不安で、上に小学生のお子さんがいる保育園のママに聞きたいことがたくさんあった。TOEICや英語学習に熱を上げて、横のつながりを全く作って来なかったことを、初めて後悔したタイミングだった。
「すぐ慣れますよ。学童もいい先生ですし」
「何かあれば、いつでも聞いてくださいね」
私は笑顔と社交辞令でやり過ごして、電動自転車のペダルを踏んで帰路に向かった。
この人に自分が持っている情報を与えることは、プラスではないと計算したからだ。
私は自分にとってプラスである人としか付き合わない。
元来、八方美人で誰とでもうまくやっていきたい、というタイプだったが、会社員として働きながら親業をやることで、その考えが変わった。
マイナスな人と付き合うと、ものすごくコストがかかる。プラスでもマイナスでもない人も、それなりにコストがかかる。
そのコストの最もたるものは時間だ。会社員で親をやっていると、とにかく自分に使える時間が無い。お金を出して1日の時間を25時間にできるわけでもないので、どうしても時間にシビアになる。
その考えがそのまま表に出た返答だった。
挨拶ついでの雑談。保育園での何気ないやりとり。
の、はずだった。
ところが、保育園を出てすぐの道で信号待ちをしているときに、ものすごい違和感が私を襲ってきた。
違う。これは私の行動ではない。今のやりとりは私ではない。
あの2年前の自分が感じた不安な気持ち、それを同じ立場の人が感じているなら、少しでも安心できるように手伝ってあげたい。
今の私ならその不安をわずかながら解消することができる。
それが本当の私なんだ。その世話好きな所が取り柄なんだ。
そういうことを将来英語とか多言語でやっていきたいんだ。
有名人でも無い、収入がものすごく高い人では無い、毎日を一生懸命生きている市井の人たちの役に立ちたいんだ。
それは収入が高い仕事ではないかもしれない。それでも、そういうことがやりたいんだ。
気づいたら、自転車で保育園に引き返していた。
「あの、お節介かもしれないんですけど」
さっきのお母さんに声を掛けた。
「ほんとですか!ありがとうございます」
連絡先を交換して、良かったらなんでも聞いてください、と伝えた。
自分ができることで、人の役に立つ。
コストが跳ね上がるかもしれない。100%自己満足なのかもしれない。想定もしていなかった問題が起こるかもしれない。
それでも、本来の自分でいられる行動をした。
そのことが、とても嬉しいお迎えの夜だった。